楽しく学ぼう!ふるさと所沢の歴史(原始・古代編)

更新日:2022年7月1日

「楽しく学ぼう!ふるさと所沢の歴史(原始・古代編)」では、身近に見つかる遺跡ついてのコラムや、楽しく学べる情報発信をとおして所沢の歴史や自然の魅力をお伝えしていきます。

所沢の歴史の魅力

現在、所沢市内には165箇所の埋蔵文化財包蔵地まいぞうぶんかざいほうぞうち遺跡)が確認されていて、大昔から人々が生活していた痕跡が見つかっています。
もしかするとご自宅や学校、公園や畑など身近な場所が遺跡に含まれているかもしれません。
今、皆さんが住んでいる所沢がかつてはどうだったのか、どんなものが現在の所沢に残っているのか、大昔の所沢へ思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
教科書や本に書かれているできごとや生活の様子がどのようだったのか想像してみると、ちょっとした疑問が生まれ、さらにそこから新しい発見へと繋がるかもしれません。

所沢で見つかる遺跡とその時代

旧石器時代

氷河時代(地球の気温が低くなった時代)に大陸から現在の日本列島に人々がやってくるようになりました。
当時は一定の場所に定住せず、移動しながら狩猟などをして生活していたと考えられています。
所沢では旧石器時代後期から人々が生活していた痕跡が見つかっています。
砂川堀や東川、柳瀬川の近くなど、一定の地域を移動しながら生活していた跡が発見されています。

所沢市の指定文化財、砂川遺跡について

縄文時代

今から1万数千年前から約2千3百年前までの約1万年ほどの期間を指します。
気候が暖かく安定していて、食べ物が取りやすくなったので人口もそれまでに比べて増えました。
人々はたて穴住居に定住して、動物を狩りで捕まえたり木の実などを煮て食べていました。
また、所沢で見つかる遺跡で最も多いのが縄文時代のものです。
土器が使われ始めるようになったのもこの時代で、所沢でも数多くの縄文時代の土器が見つかっています。

所沢市の指定文化財、膳棚ぜんだな遺跡について

弥生時代

大陸から九州北部に稲作の技術が伝わり、その後東日本にも広まりました。
それまでの狩猟採集中心の生活から、農耕中心の生活に変わっていった時代です。
所沢では弥生時代後期になってから人々が住むようになりました。
これは所沢の地形が稲を作るのにあまり適していなかったためと考えられています。

古墳時代

奈良や大阪をはじめ、各地で王や豪族と呼ばれる権力を持った人が登場するようになります。
古墳はそれらの王や豪族の墓で、日本各地で盛んに作られるようになりました。
所沢では大規模な古墳が見つからなかったため、かつては古墳が作られなかったと考えられていましたが、
その後調査が進み、古墳時代後期の小規模な古墳が数基見つかっています。
また、生活面でも、高温で焼かれた丈夫な土器や住居の中でかまどを使い始めるなど、新しい技術が広まったのはこの頃からだと考えられています。

奈良・平安時代

中国で律令(法律)や戸籍を整備した強力な国(隋・唐)が誕生すると、
それを参考に日本でも中央集権的な統治の仕組み(律令制)が整えられていくようになります。
都と地方の結びつきを強めるため全国で道路が整備され、所沢には東山道と武蔵国府(現在の東京都府中市)を結ぶ幹線道路「東山道武蔵路とうさんどうむさしみち」が南北に通っていました。
東の上あずまのうえ遺跡では奈良・平安時代の大規模な集落の跡が見つかっており、倉庫と思われる建物跡や鉄製の馬具、漆紙文書うるしがみもんじょなど一般の集落では見つからない遺物も発見されているため、役所のような働きをする集落であったと推測されています。

所沢市の指定文化財、東の上遺跡と漆紙文書について

埋蔵文化財調査センター

埋蔵文化財調査センターについて

埋蔵文化財調査センターでは、遺跡を調査する発掘調査や発掘調査で分かった内容を「発掘調査報告書」という本にまとめる整理作業を行っています。
また、遺跡から出てきた土器・石器・木製品・金属製品などを埋蔵文化財調査センターの収蔵庫で大切に保管しています。
そして、ただ保管するだけでなく多くの方に見て、触れてもらえるよう展示・公開するようにしています。
月曜日から金曜日の午前8時30分から午後5時15分までセンター内を見学することができますので、「ふるさと所沢」の歴史を身近に感じていただければと思います。

埋蔵文化財調査センターの紹介ページについて

広報マスコット「ひばりちゃん」による埋蔵文化財調査センターの紹介ページです。

お問い合わせ

所沢市 教育委員会教育総務部 埋蔵文化財調査センター
住所:〒359-1152 所沢市北野二丁目12番地の1
電話:04-2947-0012
FAX:04-2947-0048

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